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さて、ぎっくり腰はだいたい治ったのだが、せっかくのぎっくり腰なので、前に紹介した
amazonから直で図書館予約で借りだめしていていた本を一気読みしてやろうと思ったのだが、ひょんなことから
「龍馬伝」などななめ視聴したりして思ったほどには読み進まなかった。(龍馬伝は意外におもしろいな。)
とはいえせっかくの機会であるし、読んだ本からちょっとおもしろかったことをピックアップしてみる。
日本語の歴史について今回、改めて気づいたこと。
“にほんご”には最初文字がなくて、中華圏から漢字を輸入して文字が生まれたことはご存知のとおり。だけど輸入した頃から4~500年間くらいは「かな」が発明されていなかったので、いわいる万葉仮名と呼ばれる当て字を(夜露死苦で「よろしく」と読むみたいなもの)使ってました。漢字の本来の意味とは全然関係なく、漢字を発音記号に置き換えてしまったわけです。だから「夜露死苦」みたいな言葉遊びのセンスは、実はしっかりしたルーツをもってるのね。
あともう一つ発明された漢字による“にほんご”運用戦略が、もっと強引なやつ。
それは今日で言う、「訓読み」。
かんが「鑑みる」
みたいなヤツですね。
どうしてこれが強引なのか。
それはちっと考えて見ればわかるのだけど、全くの外国語文字に自分の国の言葉をおっかぶせて読むというのはものすごく強引なことばなのよ。たとえば、
あなたわたしはYouがすきです。
あい このよLoveだけがworldのすべてです。
これと同じことをしてるわけ。(今の中国人はどう思ってるんだろ?)
そこにはルールなんてない。Loveを「あい」と読もうが「こい」でも「すきなひと」でも、「サザンの歌だぜ」でも、なんでもあり。
だから、いまでこそ、明治以降の「常用漢字」政策で収斂されているものの、江戸期以前の訓読みはかなり奔放だった。
まず平安~鎌倉の頃。
よもすから通夜
ささやく私語
かたみ記念
あからさま白地
「かたみ」なんぞはどうも今風。
次は江戸期にはなるけど、
とりあげばば収生嫗
あだなるふみ艶書
みそかごと密会
こんなのはおもしろいと思う。(もちろん文脈や文体が問題だけど。)
こんなのもあるか。
長訓読み選手権 えんしゅうりつ オレのいきかた「夜露死苦」とか「π」とか「ROCK」とか、
根本的にはまちがってない。(いきかたが間違ってるかもしれないけど、それは知らない。)
こういうことを読んでいると、日本語は「ルール」じゃなくて「こう読みたい!」「こういう言葉をつかいたい!」っていう意見の集合知にコントロールされているって事を感じてくるのよね。
ただし、「ただしい言葉使いをしたい!」っていう意識がメタ的に働いているので、テンテンバラバラになるわけじゃないけど。
さらにそこから進めて考えて見ると、結局にほんご的ルールっていうのは、柔軟で融通が効くけど、原理原則はなりたたず、恣意的な力の支配する「世間」なんだ。みたいな話になってくるんだけど、そういうベンチャラはヤメにしてもう寝ることにします。
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